次男の高校の文化祭に行ってきた。どこに?文化があるのやら?でも、まぁ、、頑張っていたな、、。
体育祭が10月で、文化祭が11月。そこに、修学旅行まで重なる。と言うイメージを持っていたが、どうも?違っていて、適当に、バラバラの時期にやるんだなぁ、、。高校時代、文化祭は、全く参加していない。記憶が無い。
だが、体育祭は、頑張った。観戦用スタンド作りがあったからだ。今の鞍高は、スタンドが無いようだ。私らの頃だけがあったのかなぁ?
トラックを囲むように、各クラスの位置決めがされていて、近所の竹林を持っている家から孟宗竹をタダで分けてもらい、各々のプランで組立てるのだ。現在、建築用の足場として使用されている枠組足場などで作るのではない。竹だけで作るのだ。
今でも思い出すのは、3年生のときのスタンドだ。
まず、材料となる『竹』を手に入れなければならない。ご存知のように、筍は孟宗竹が一般的だ。竹林の中を滅多やたらと荒らすと、翌年の筍の出来に影響がある、、、のだそうだ。それを、スタンドを作れるくらい切り出すのだ。おまけに、とにかく太いものから切り出すわけだ。竹林には、悪影響だろう。
私は郡部である金田中学の出身だ。直方に、なに中学があるかも良く知らず、鞍手高校に入学した。体育祭がどんなものなのかも全く知らなかった。当然だが、竹林がどこにあって誰が所有者か?など、知るはずも無い。
一番楽な入手方法は、学校近くの竹林という事になるが、私のようにSLを利用して通学していた者には無縁だ。(2年生からはSLが無くなりディーゼル車になった)
実は、1年生の時もスタンド作りをした。幸い、高校近くの新入と言う地区のNがいたので、所有者を何人か知っていた。また、他の者で作り方を知っている者がいたため、苦労しなかった気がする。
1年生から作り始める順番になっていたので、時間も楽だったのだろう。2年生の時は男子だけのクラスであったため、これまた苦労しなかった。
ところが、3年生の時は、そうは行かなかった・・・・・。
まず、家庭の事情というやつと、思春期と、反抗期で、私は、、、そうとう、、おかしかった。まぁ?今もおかしいことには、変わりないかもしれないかな?へへ、、、。
2年生から3年生になる時、これはぁ、、夜間高校に変わるしかないのかな?と覚悟しなければならない状況が、いくつか重なっていた。その頃、東京に居た兄や姉は、知る芳も無い状況だった。まぁ、、何とか解決に向かい、普通高校のまま3年生になる事が出来た。後々、その経験は生きる事になった。ある意味、財産となった。商売人の息子として生まれた事が、今最大に役立っている。
1年生の時、ご多分に漏れず、好きな女の子が出来た。毎日のように、電話をかける。あの電話代は?ちょいと凄かったかもしれない。しかし、彼女は、こっちの盛り上がりほどではなく、合わせてくれている状況が続いていた。鞍高の坂道を彼女と歩く事が、我が高のステータスであったろう、、、、が、彼女のガードは堅かったなぁ、、。電話だけだったなぁ、、。それでも、何度か歩いたことはあったが、、、まぁ、その程度が良かったのだろうなぁ、今思えば、、。
成績は、3年間を通じ、1年の最初の最初だけ、数学のお陰で鞍高生を保てたが、英語のお陰で、全てを投げ出すくらい、どん底に落ちてしまった。
そんな状況での3年生だ。
完璧に落ちこぼれていた。当時のクラス代表は『組長』という怖い名前だった。今は、どうなっているのだろう?この組長は、成績トップか、、、まぁ、、ビリがやるものだった気がする。なんと、1年のときと3年の時、この組長をやらせられた。今時の内申書というものが、あんなに大事に持て囃されるのなら、有り得ない話だろう。なにせ、3年の時はビリであったろう事は、間違いないからだ。
私は、2学期とか3学期に組長をやった。1学期の組長は、ちょいと違う。1年のときの組長M君は、入学式の総代で、一橋からD銀行へ。3年の時の組長N君は、九大医学部で現在は病院や人間ドックを経営している。私とは、えらい違いだ。
当時も、今と同じ自民党の総裁が決まる頃で、三角大福の時代だ。
3年の2学期に、Yの推薦で組長にさせられてしまった。そのYが、倫理社会の授業で、『三角大福と言っても、順番で決まっているようなもんです』と言ったことは、ショックだった。まぁ、、、当時のクラスは、受験勉強真っ盛り。2学期の組長は、受験に関係ない奴?が適任であった事は確かだが、、そりゃないよなぁ、、。
で、完璧にひねくれて、最初の行事である文化祭は、一人ボイコット!担任のS先生が何を言っても無視したことを覚えている。
ところがだ、、。体育祭のスタンド作りは違った。1年、2年に同じクラスだった者にカッコがつかない・・・・と感じたのだ。やる事にした。
しかし、まるでやる気が無い連中の集まりだった。と言うか、『元々そっち系は、不得意です。』ってメンバーが、たまたま集中していたのだ。更に、運の悪い事に、孟宗竹の関係者が居ない事だった。1年生の時にもらいに行った所有者を思い出し、いきなりの交渉!当たって砕けろ!だったなぁ、、。
やっと、材料もそろったが、作り手が居ない。文化祭をエスケープしたからか、協力者が現れない。実は、スタンド作りだけであるなら間に合ったのかもしれない。『大看板』が控えていたのだ。
スタンドの後ろに、クラスのテーマを映画館の看板のように大きく作るのだが、、半端じゃない。ベニヤ板で何枚くらいだったか?9枚は、あったはずだ。今考えると、風の事を考慮していたか?よく覚えていない。4枚だったかな?
私を組長に推薦したYは、絵が上手かった。後々、画家となるA君より上手かったと思う。彼との仲を修復し、実家の2階で『大看板』を描いたのだ。
題名は?『3年7組のメロディー????』とか、そんなものだったと思うが、看板の絵そのものは、映画『小さな恋のメロディー』のポスターを拡大したものだった。映画好きの私は、ポスターを確か?2枚持っていたと思う。その内の1枚に碁盤の目を書き、拡大して、ポイントを位置を決めベニヤに写すのだ。あとは、Yの腕任せ。
さて、クラスは3年7組。各学年8クラスだから、23番目にスタンドを作り始める事になる。最後から2番目だ。押して押して、薄暗くなり始めた頃、我がクラスの順番が来た。
と!・・・・・数人しかいない・・・・。
どこに行った????これでは最後の8組のスタンド作りの頃は、真っ暗だ。
と、1年、2年の頃のクラスメートが、『原ぁ、、手伝うよ、、うちは終わったから』と集まってくれた。でも、始まりが遅かった。当時、バイク通学していた私は、照明の代わりに、バイクのヘッドライトで照らして最後の作業をした、、、してもらった。
もう、、真っ暗だ。3年8組のスタンドは、当然、翌朝の体育祭当日に作る事になる。
切れていた。
どこからともなく、我がクラスのメンバーが戻ってきた。今考えれば、よく殴らなかったと思う。確か?殴ったりしてない、、、よなぁ?
『おい、きさん!明日8組のスタンド作りに来んかったら、わかっちょろうのう!』
翌日の体育祭当日、朝から8組のスタンドを作った。
体育祭そのものでの活躍は、残念ながら無かったが、昼食時、スタンドが気になって、誰も居ないスタンドを点検しに行った。その時、たまたまか?追いかけていた彼女も観にきていた。まぁ、、うれしかったね。
まぁ、、そこまでして作ったスタンドの写真を持っていない。誰か?持ってませんか?
しかし、今から何年前だ?33,4年前だよ、、。
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