私の独立の切っ掛けとなったビル・・・の、オーナーさんが亡くなった、、。
私が、独立する事になる”切っ掛け”は、この方の影響であろう事は、間違いない。
『鶏口となるも、牛後となるなかれ』とでも思ったからか・・・
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気持ちは、『牛口となるも、龍後となるなかれ』の、つもりだったかもしれないが、人のやらない”独立”と言うものを、してしまった。
独立する事を社長に話したのは、昭和63年の正月を迎えた時だ。
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その年の3月末まで、以前の会社に所属し、4月1日より株式会社アートヴィレッヂとして動いた。
自分が常駐し、施工図をまとめていたビルは、3月末で竣工したのだが、1階のテナントが決定せず、自社の営業はやらずに、引き続き現場に常駐していた、、
だが結局、決まらず終い、、5月から本格的に動く事になるのだが、連休に入ってしまう。
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5月の連休は、久々に九州に帰り、兄が段取りを付けてくれていた”Uさん”に会った。
後に、我社の取締役になってもらい、このブログタイトルにあるビル↑の施工図を、九州で作図し、現場常駐していた私を助けてくれることになる人だ。
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人手は揃った、、しかし、仕事が無いのだ、、全く営業が出来ていないのだから、当然だった、、。
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幸い、会社の事務所として借りたビルのオーナーさんから、あるゼネコンさんを紹介して頂き、とりあえず1件目の仕事をやる事になるのだが、、
不思議なものだが、、そのビルに、弊社が在り、今、そこのその部屋で、このブログを書いている。
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しばらくして、、テレビでニュースが流れた、、。
見た事があるビルなのだ、、、えっ?
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連休前まで、3年半も掛かり、、やっと造ったビルが、、バンバン、、テレビに出て来るのだ。
そのビルが、、”R事件”と呼ばれた切っ掛けとなるビルだった。
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私が”独立しよう”と思うような”切っ掛け”の方は、色々と有った。
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オーナーさんである”R”さんの方から、現場サイドの関係者を招待し、宴会を開いてくれた。
座敷であったが、今ならば駅前の居酒屋チェーン店と言ったところだろう。
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驚いたのは、Rの社員の人たちが、余興をやってくれたのだ、、寸劇だった、、。
あれから25年以上過ぎたが、そんな事をやってくれるオーナーさんには、会った事が無い。
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この人たちは、、飛ぶ鳥落とす勢いの会社の人なのに、、優秀な学校も出ている人たちだろうに、、真剣に、笑わせようと寸劇をやってくれた、、。
『いやぁ、、これから、我々の旗艦となるビルを造ってもらうんですよ・・』とも言われた、、。
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ある日、日経ビジネス??だったであろうか、、我々が造っているビルの特集が掲載されている雑誌を見せられた。
竣工の前年の昭和62年だったかなぁ、、
『このビルには、スーパーコンピューターが設置されるんです、、しかも、1台ではありません、、(確か?)3台です』と書いてあったかと思う。
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どうかなぁ、、今、私の机の上に有るパソコン、、3次元のBIMをスイスイ(まだ、勉強中だが・・)動かせるのだが、、これ程度だったのかもしれないが、、。
データのセキュリティのため、ビルの使い勝手が、非常に複雑だった。
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アナログに、鍵のみで防犯をするのではない、、電気錠を駆使し、カードセンサーと組み合わせる、、まぁ、、現在のビルならば、、ごく当たり前に、やらなければならないセキュリティなのだが、、。
今のように、インターネットなど無い時代だ、、”そこまでやっても・・・”というセキュリティだったが、通商産業大臣名の”なんちゃら”という法律まであって、その基準に準じて施工しなければならない訳だ、、。
大臣は田中六助さん、、実は、父の、旧制田川中学時代の同級生で、わが故郷の名士だ。
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刺激される事が、沢山沢山あった現場だった。
とにかく、、現在の私があるのは、あのビルから、、なのだ。
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江副さん、、ご冥福をお祈りします。
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