« 鼻タケその後と、父の自分史、、パート2 | トップページ | また始まったな、一度に色々な事やろうとするんだよ、、。 »

2009年8月23日 (日)

鼻タケその後と、父の自分史、、パート3

金曜日、鼻タケ手術のガーゼを取ってもらった。

5~6cmほどの長さをクルクルと巻いたものが、4本入っていた。これが、喉の奥に当たっていたのだが、だんだんと慣れてきていたところだった。しかし、木曜の夜中頃からは、喉の奥に落ちて行きそうな感じになって、、『気管に入ったら、どうしよう!』などと考えると、またまた眠れなくなって・・。

いやぁ、、取ってもらったら、、スッキリ!

次の、左の鼻タケも取ってもらおうと思い、『来週の月、火でお願いしたいのですが』と言ったところ、看護婦さんから『様子を見て、9月位にした方が、、』とアドバイスを受けて、9月8日の予約を取った。

そして、、、金曜日の夜、、なんと、我社は、”暑気払い”

4日に母が亡くなり、5日通夜、6日告別式、7日より実家の大掃除、以後12日まで。13、14、15は、昨年7月29日に亡くなった父の初盆。16日東京へ、17日仕事、18日鼻タケ手術、以後ガーゼが鼻の中にビッシリ・・。

実は、8日に従兄弟と飲んで以来、16日に缶ビール1缶のみで、その後は鼻タケで飲んでいなかった。

いやぁ、、ビールの味が、まるで違った。暑気払いは新橋でやったので、地元に戻り、焼酎のお湯割りを飲んだが、、、これまた味が違う、、。

で、この土日、飲む気にならないでいる。”酒”について、味が変わった?のかなぁ、、、。

さて、父の自分史の続きだ。実は、一番長いのが残っているが、地名人名を考えると、”私”の事ではないので、控える事にしようかと思う。従って、父の自分史は、これを最後にしておくつもりだ。

==========

信   州

                           原 久夫 述

 女子学生の修学旅行に信州馬込、小諸が選ばれることが多いそうだ。籐村の「夜明け前」や「小諸の詩」か゛女の子の夢をさそうのだろう。

入隊前数ヶ月、中島飛行機の同僚A君と浅間に行った。

A君は横浜専門卒今の横浜国大で、学徒動員で、入隊すべき事情も私同様。とにかく行つてこよう、というところ、目的も何もありはしない。 

東武線で川上峡をすぎて、何というところだった忘れたが、宿をとって翌日、歩き始めた。広い原っぱだ。地図なんか持たないし、あきれるほど広い。浅間山の山頂付近は火山灰原で歩きにくい。夜中に山を下りて農家にとめことてもらった。こことで食べたのがイナゴ。イナゴは焼いてあつた。それ以来八十過ぎる今日まで食べたことがない。

海のない国信州、昔、信玄も;これをたべたのかな。

翌日懐古園に、だが、ここのその頃のことは殆ど覚えていない。

佐久の草笛は聞こえなかつたが眼下に千曲川があつた。

この山の中に会社の社員記章を落としてしまって再交付を受けるとき怒られた。それも道理、当時中島では「隼」「鍾馗」がマスプロに入っていて、「キ84」正式名「疾風」の試作中で、試作工場にはこの試作記章がないと工場の者でもは入れない。まあ当時私は営業課試作係で、試作中の疾風三号機の金井技師補の制作進捗をみる僅かの人間の内だったから特にだ。まあ、すぐ入隊する人間だからだろう、処分は受けなかったが。大失敗。

 

 二度目の信州は、日本の一番長い日、そう、あの負けた日から一ヶ月以上かかって部隊の後始末をして、やつと終わった後だ。

とにかく部隊経理の責任者だから何もかも処分して、何もないようにしないと復員できない。毛布から何から、兵隊のもてるものは兵隊に何でももたせて帰した。帰るときは部隊の自動車、指揮官車もつかった。やっと経理室の任務が終わったら、木炭なんか付近の民家にやって処分した。このと部隊の武器は勿論私の軍装品まで米軍に引きわたした。繰典類から書類全部焼いた。

終わって、経理下士官のC氏が私の郷里信州を回って帰りませんかという。航空燃料のエチルアルコールを土産に彼の田舎におじゃました。90%以上のものだからまあ当時としてはよい土産だらう。

連れて行ってもらったのが川中島、歓待された。立派な大きな農家で会津塗の応接台いっぱいのご馳走、もう彼の上官ではないのに。

 川中島合戦の古戦場八幡原に行く。いまはもっと立派になっているだらうが、石墨のなかに碑があったように思う。甲越二英雄の戦いの跡と日本アルプス嶺嶺の姿は今も忘れない。  土地の人は八幡原「ハチマンパーラ」と呼んでいたのではなったかな。

三度目青春の思い出信州を妻と訪ねた。千曲川に電力発電所建設とかで、藤村の「緑なすはこべ」は見えず、懐古園も人ばかり、せっかく妻に見せでたかった信州の情緒はさっぱり。だけど浅間には上まで登った。まあ浅間神車社参拝でまあまあか。火山灰の丘で写真をとった。何処かにネガぐらいあるかもしれない。絵画の展示室でみた浅間の画はテレビなんかで時々紹介されることがる。 

  もう八十四歳おまけに癌、妻も八十一歳入院中、信州四度目はなかろう。

========

ここにある”三度目の青春の思い出信州”は、私が連れて行ったものだ。父は、裁判所で調停委員をしていた。それを辞めた後、最高裁判所で表彰して頂いた。その際に、母と上京して来たのだ。

日帰りで、山梨長野を周ったときの事を言っている。

このとき、父が、私と母のツーショットを撮ってくれた。その時の母の写真が大きくアップされ、今回の遺影になっている。

|

« 鼻タケその後と、父の自分史、、パート2 | トップページ | また始まったな、一度に色々な事やろうとするんだよ、、。 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 鼻タケその後と、父の自分史、、パート2 | トップページ | また始まったな、一度に色々な事やろうとするんだよ、、。 »