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2006年10月15日 (日)

地図に残る仕事

同窓会の当番幹事から、『現役学生が、5~8人ほど参加するので、自営業代表で何か一言書いてください』と、依頼が来た。締切りは、今日の14日だ。

さて、困った。面倒なので、『このブログを読んでくれ!』では、まずいかなぁ、、。H君、それで構わないならよろしく!

まぁ、、そんな課題を出されたので、ついつい考えてしまう。”独立して、会社を作る。”なんで?そんなことをしたのか・・・?確りした説明が見つからない。そりゃぁ、それなりに頑張っていたのだろうが、説明できないのは、理由が希薄だからだろう。B型の自分としては、ちゃんと考えるのは苦手だ。

ただ、建築って、いいよ。残っているからね。

係わった仕事の最初は、桜田門前の”警視庁本部庁舎”で、模型を作る仕事だ。丁度、『7人の刑事』の再放送が始まり、例の音楽と共に、上空から撮る現場が写るのだが、建物が出来上がっていないどころか、鉄骨が、やっと地上に顔を出した程度だったので、間の抜けたものだった。

次にやったのは、5行広告で就職した施工図事務所で、インドネシアの海兵隊の学校”ウジュンパンダンラッティングスクール”の施工図だった。いやぁ、、何の事か分からない図面だったなぁ、、あの頃はぁ、、。

で、その次にやったのは、イラクバクダットの街を造る設計を手伝った、、、後々、そこを、アメリカ軍が攻撃することになろうとは・・・。まぁ、トンでもない。

次は、自分にとって、建築施工図を、今日まで続ける事になる切っ掛けとなった現場、”東京高等地方簡易合同裁判所”だ。この現場には、2年半ほど常駐した。この現場にいる間に結婚することになり、何と!、仲人は、この現場の所長であったYさんだ。後々、取締役となり、他社ではあるが一部上場の社長さんになられた。不思議だが、この後、私を重宝に思ってくれる方は、社内で出世して行く方が続く。それだけではない。この現場に居たメンバーと、会社を設立してしまったのだ。当時27歳。

次は、『バブルは、ここから始まった』と言われた”広尾ガーデンヒルズ”だ。これまた、分からない事だらけで、図面を描いていたが、、無駄な残業だったなぁ、、。

次は、所沢駅前の西武デパートだ。裁判所の現場で鉄骨チェックをやったお陰で、鉄骨を見ることになったが、車路スロープもやる事になり大変だったなぁ、、、仮設の切り梁は、既に架けてあり、施工手順を考え直してもらわないと駄目だった、、まぁ、、大変だった。

次は、川崎でリクルートビルをやった。正直、3万5千㎡はあったが、過去に常駐した現場では、一番小さかったかと思う。2年半ほどで常駐したが、この現場に居る間に、初めての子供長男が生まれた。それだけではない。この現場が終了する時の88年3月、会社設立をして独立したのだ。テナント対応の仕事をもらえるかと思っていたら、テナントが決まらず、仕方なく現場を上がる事になった。それが5月連休前だった。さぁ、、どうしよう?独立はしたが、、、仕事がない、、。と、連休明け、テレビは大騒ぎ!!何と、このビルがテレビに出ている。”リクルート問題”は、このビルから始まったのだ。

更に、それまで気付かなかったが、この独立した88年は、バブル元年だったのだ。だからこそ、独立したばかりの会社に、仕事が来た。人も雇った。数年間、事務所で持ち帰りの仕事が続いた。社員は、現場常駐をして、施工図を描いてもらった。

社員は、色々な現場へ常駐し、施工図を描いてもらった。池袋東武デパートから始まりTBS放送センターや横浜国際競技場と続いて行った。

『バブルが弾けそうだ、、』という情報が駆け巡り始めた頃、お台場から青海で倉庫群をやっていた。その頃、次の仕事が取れない・・という不安が出始めた。そんな時、裁判所の現場で一緒に働いた監督から、、、フジテレビをやらないか?という話が来た。久しぶりの現場だったが、自ら常駐する事にした。2年半は居た。

同じ頃、フジテレビの斜め前にある台場日航ホテルに、常駐する社員を送り込む事が出来た。これも、後々の我社の、後半戦の起点となった。当時のお台場は、品川と新木場から、乗り合いバスで通う状態だった。なんと、このバスの中で横浜国際競技場での知り合いに会い、日航ホテルをやることになるのだ、、運は、どこにあるか分からないものだ。

さぁて、、予想していたバブル崩壊は、フジテレビの現場に居る間に起こったことになる。現場が竣工するまで、居る事はできなかった。会社など作らず、自分一人だったら・・・最後まで、現場常駐できたのだが、そうは行かない。まぁ、、、社長が現場に入りっ放しでは、営業ができない。途中で上がる訳だ。これは、業界では、『ケツわり』と呼ばれ、普通仕事が来なくなる。事実、その後は、バブルが弾けただけではなく、悲惨状況が待っていた。

事務所に戻ったが、どうも、、、上手く行かない。と、現場常駐している社員が、サラ金で首が廻らなくなり”ケツわり”になった。彼に限らず、バブルな考えになっている事に気付いていなかった。穴を埋めるため、現場常駐して工場を作った。

また、事務所に戻った時、もう、、、どうしようもなかった。営業の居ない会社は、会社にならない。

そんな年末、一本の電話で、また、現場常駐する事となる。各省庁が副大臣を置く事となり総理本府も屋上に1フロアー増築することになり、わずか1ヶ月の常駐をした。

それ以来、最前線は無くなった。倒産を覚悟したが、何とか借入れをすることが出来て、乗り切る事が出来た。が、何度も書いているが、この時の借金が、今も大きくのし掛かる。

だが、社員が成長してくれたため、今を生きていく事が出来ている。最近の彼らの作品は、六本木ヒルズを始め表参道ヒルズと続き、今日も大型現場に常駐して施工図をまとめてくれている。

地図に残る仕事をやれて良かった。

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コメント

一級能書士さん

内容、いいですね。修正いれずに全部使いますか。
ちょっと検討してみます。
何か、仕事って形が残っていですよね。親父も直方で電気工事の会社を経営してたので、筑豊のあちこちに親父の作品がありました。
僕も今の会社に入った直後、九州全域のJA(農協)の貯金のコンピュータソフトを担当しました。自分の作ったコンピュータが直方のあちこちで動いていると思うとわくわくしたもんです。

投稿: hiro | 2006年10月15日 (日) 10時42分

>hiro さん
おぉ!、、、観た?へへ、、。
このブログのどこでも適当に使ってください。
・・・って、メールしないとね。

投稿: 一級能書士 | 2006年10月15日 (日) 11時38分

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